Humanmania;日本経済学の父

Ⅰ.どんな人?

  • 誕生日

1840年天保11年)2月13日(太陰太陽暦

             3月19日(太陽暦

 2. 名前

   上に二人の兄弟がいたが早くに亡くなります。それもあり、始めは市三郎、次に栄二郎、そして栄一と名前を変えていきました。

3.出身地

 埼玉県 深谷市

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このあたりの土地は砂礫が混じっており田んぼにはしづらい土地でした。江戸時代になると、贅沢品である絹の需要が高まるようになりました。蚕が食べる桑は砂地まじりの土地がよく、この地に合う産業ができるようになります。それに合わせて絹を染める染料の藍玉も作られるようになります。

 

 4.生涯

   天保11(1840年)年。清国ではアヘン戦争の直前。武蔵国 榛澤(はんざわ)郡(ごおり) 血洗島村の農家で渋沢家の宗家(中ノ家)に生まれました。父(市郎右衛門(いちろうえもん))は非常に真面目で、几帳面、養蚕、藍の製造・販売、金の融通など農工商をかねて営んでいました。

    市郎右衛門は武家なろうとしていた時期もあったようで、学問は漢籍俳諧もできたようです。

    その父に6歳から漢籍素読を教えられ栄一は孝経、小学、大学、中庸、論語などを読んでいました。  

    7歳には隣村の尾高(おだか)惇(じゅん)忠(ちゅう)の元で四書五経のほかに『国史略』『日本外史』などを学びました。

    14歳で家業の藍玉の元になる藍葉を買い付けに行くようになります。 

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大河ドラマホームページより

 

江戸や水戸からも近いので、当時の最新の学問であった水戸学を栄一は熱心に学んでいたようです。水戸学は「尊皇攘夷」をおす学問でありました。

    その影響で23歳(1863年)に高崎城の乗っ取り、横浜を焼き討ちし、外国人を片っ端から殺していこうと計画していました。惇忠の弟、尾高長七郎に説得され中止したが、70人ほどの同士が集まるほどになっていました。幕府の取り締まりにひっかかるかもしれないため危険を回避するため京都にいきました。

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    その後、一橋家の用人、平岡円四郎(ひらおかえんんしろう)の家来になり、一橋慶喜(後の徳川慶喜)に仕えるようになります。栄一が倒そうとしていた幕府でありましたが、慶喜が将軍になることで栄一も幕臣になってしまいます。

    27歳の時、慶喜の弟の徳川昭武(あきたけ)と共にフランスのパリ万博にいきます。

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後列 向かって左端が栄一


明治元年(1868)帰国後、幕府がなくなり謹慎の慶喜がいる駿府にいき、勘定組頭になりました。日本初の株式会社「商法会所」を静岡県に設立し、静岡藩の借金を返済しつつ、殖産興業のための資金の貸し付け、農業のめの肥料の買い付けなどを行っていました。

    商法会所を設立した年、大隈重信から民部大蔵両省に誘われて一度は断りますが、入ることになります。民部大蔵両省では、役人として近代化に貢献しました。しかし明治6年、財政改革の主張の対立により大蔵省を辞職します。

    34歳の時、辞職して民間実業家として活躍し始めます。日本初の銀行「第一銀行」(今のみずほ銀行)の総監役になり、その後もご存じのように最終的に約500もの企業に関わっています。

 

 

   76歳で実業界の第一線から退いた栄一ですが、69歳では渡米実業団を結成してアメリカに行きました。民間外交の一環として平和運動にも力を入れ、国際的な相互理解に関する活動をしました。第一次世界大戦後、国際連盟の設立があり、栄一も「日本国際連盟協会」を設立し民間からの国際連盟支援運動を薦めました。結果、ノーベル平和賞の候補に二回なっています。

 

Ⅱ.渋沢エピソード

 1.「青い目の人形」

   栄一が渡米実業団とアメリカにいった当時、アメリカとの関係は悪く日本移民の排斥運動が行われていました。1920年には日本の経済状況の悪化や1923(大正11)年には関東大震災があり、アメリカとの関係の修復も考えていました。

   

   1927(昭和2)年、「青い目の人形」の話が生まれます。アメリカの宣教師シドニー・ギーリックの提案で日本のひな人形や五月人形の風習にならって、日本とアメリカの子ども達で人形を交換することになりました。

   栄一は、日本国際児童親善会という組織を作ってギーリックのアイデアに協力しアメリカから約1万2000体の“青い目の人形”が送られてきました。日本からは58体の市松人形を送りました。数がぜんぜん違いますが。

 

2.「晴天を衝け」

 ①由来

  今大河ドラマで「晴天を衝け」が放送されています。主人公は勿論渋沢栄一です。これは栄一の漢詩「内山峡」からもってこられました。

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(写真は「内山峡」詩碑拓本.渋沢栄一記念館蔵)



 

②登場人物

 

 

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大河ドラマホームページより

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

③題字

 今年の大河の題字は、現代美術家杉本博司さんが書いています。

 杉本さんは「今回その江戸時代があけて明治になる、その新しい時代へと向かう光を意識して題字に挑みました。渋沢栄一が見たヨーロッパ、そしていち早くその文化と経済の神髄を見いだした慧眼。まさに近代日本という晴天を開くために暗雲の江戸を衝つき、輝かしき万札の顔となる人物。そのふさわしい題字をこころに描き、運筆いたしました」といいます。

 

⑤オープニングのタイトルバック

 オープニングのタイトルバックのディレクター・柿本ケンサクさんと、本作の演出松木健佑さんのインタビューがありました。

 この作品について柿本さんは「幕末から明治に移り変わり、これまでの文化や生活が一変して、多くの人がプライドを捨てて必死になって、涙も流しながら欧米諸国にくらいついた時代だと感じています。型にはまらず、常に挑戦し続けた渋沢の人生は、現代社会に生きる自分たちへの気付きや勇気をくれる。その熱を表現したかった。」と変化に必死で順応していく人の熱を表現したかったのだと思えます。

杉本さんは「道徳と経済を両立させる『論語と算盤』が名著としてありますが、渋沢の人生をひも解いていくと、矛盾にぶちあたるんです。若いときは農民から志士へ。倒幕を目指しながら一橋家の家臣になる。外国人を殺すことを企てながら率先してパリに行く。物語にしていくときに、おもしろいなと思う反面、悩んで作っています(笑)。でも、それこそが渋沢の魅力だと思います。これからもあっち行ったりこっち行ったりしますが、最大限のアウトプットができるのが醍醐味だと感じますね。」というように矛盾や波瀾万丈な人生の生き生きとした様子を想像しているのではないかと思えます。

 

この3分のタイトルバックは3段階のストーリーに分けられて作られています。

序盤は、鶏の目線で侍や江戸の暮らしが垣間見え、柿本さんは「生命の始まりをスタートにしつつ、佐藤直紀さんの音楽を聞いたときに直感的に浮かんできました。清らかな鳥のさえずりのような音から始まり、美しくダイナミックなメロディに合わせて物語が広がっていくことを意識しました」と説明しています。

 

中盤では、船に乗り海外に挑んだり、文化や発展の違いにもまれているような印象を受けまます。

 

終盤では、明治時代になり、栄一を人が取り囲んで新しい時代をミュージカルで表現しているそうです。

 

柿本氏は「ドラマと同じことをしても意味がないという話がありました。良い意味で視聴者の方々を裏切りたかった。渋沢は、これと決めたことに生きるのではなく、裏切りを持って生きていた。人生を踊るように生きた人間だと考えています。高い壁を目の前にして、壁があると笑い、踊るように生きた。大河ドラマでミュージカルという“意外性”が渋沢の人生を表すことにしっくりきました」と明かしています。

 

大河のオープニングはいつもその時代の熱を感じさせてくれます。今までは聞くだけでしたが来週は映像も意識してみてみます。

まとめ

日本経済学の父と呼ばれ、論語など古典にも関わっている渋沢栄一です。春に論語は読んでみましたが、栄一も武蔵野国で最新のものも積極的に学んでいたのを見ると私ももっと新しい情報に多方面で敏感にならないとなと思います。

興味をもった人はとりあえず大河ドラマ見てみてください。変化の激しい明治と現代で共通の学ぶ点も多いはずです。

 

 

綾野

 

 

 

参考文献

・『晴天を衝け』主人公・渋沢栄一の生涯-「日本資本主義の父」のこうせいとは 渋沢栄一とは? 功績・年表・人物像などすごい生涯と教えまとめ | マイナビニュース (mynavi.jp)

・「晴天を衝け」ホームページ  大河ドラマ「青天を衝け」|NHKオンライン

・沖縄タイムズプラス 【晴天を衝け】タイ語ドラマでミュージカル タイトルバックで表現した渋沢栄一の人生と“意外性”【青天を衝け】大河ドラマでミュージカル タイトルバックで表現した渋沢栄一の人生と“意外性” | ORICON NEWS | 沖縄タイムス+プラス (okinawatimes.co.jp)